夢とはそもそも何?

  1. このブログ、まだ始まったばかりなのに、いきなり本題に入っていいのか?って少々不安に思うのだけど、この「夢」について語りたいと思っていて、それについて『そろそろ語る時期なんじゃないの』と突き動かされている感があったので、このブログを始めたんだよね。うん、そうそう。

一通り経験すると、色々考えるんだよね。これまでの人生ことや将来のことを。

人は生まれて大人になって色々あって、色んな色に染まって、そして色あせて命を終える…それだけのこと?なんか違うよね。それだと人生の答えにならないし納得できない。

そう考えるのが人間にとっての自然なのだと思うのです。

人生を悟ったあの日…

昔、あるつまらないことが発端で家族を巻き込む大論争になった。そのテーマは「自分の命の価値とその用い方」。その大討論会で僕が放った一言が家族全体に悟りのような、「あっ!そうだよ」ってことでみんなが納得。それ以降それが少なくとも僕の生き方の柱になった。確かこう言い放ったんだ…

子どもはいつまでも子どもであってはいけない。子どものままっていうのは「猿」と同じ。ちょとましな知能の発達した猿。自分勝手に自分の基準だけで好きなように生きるんだったら猿、それは「猿」だ。人間じゃない。人間は人から学び、学んだ知識を積上げて、結びつけて使えるようにして知恵を身に着け、知恵をたくさん発揮して経験を積むんだ。賢くなるとはそういうこと。その賢さを発揮して過去を今を見極めて、未来を見つめて物事を洞察する。それこそが人、それが大人だ。大人になるから人になれる。そうでなくいつまでも子どもじみていたら大人じゃないから人じゃない。それは猿だ!

母親には「な、なぜわかったのそんなことを」と言われ、父は呆然とした。弟は目をむいていた。僕はゾクゾクしてしまっていた。人は人として絶えず成長を続ける生命なのだと、僕はそのとき悟った。

夢なら犬も見るけど、人は凄い夢を見る。

ー昔あった楽しい経験を寝ながら思い出しているのか、すやすや眠り寝言を言う犬の動画があったりするから、犬も夢を見るのだろう。

でも、人はほかの生き物とは全く異なる、それは猿とも明らかにことなる特性を発揮できる。それは過去と未来をじっくり考えることができることだ。

人は、今と過去を見つめ未来に向けて洞察することができる。しかもそれを幼いころから自然にできる。よく考えたらこの能力というか本能って凄いと思うんですよ。

そう思いませんか?

子どもたちは、たくさん夢見る幼少期に活発に知識を取り入れて物凄い能力をいろいろ発揮できたりするでしょう。この夢見る能力って凄くないですか?こんなことできるのは人間だけ!

子どもたち自身、自分の大人になった姿をワクワクしながら想像できる。この能力やっぱり超スゴイ!

『魂』―それが夢見る力の源

この持って生まれた能力を思う存分発揮できる状態でいられる―その生きている様、生きようと活力にあふれている様―僕はこれこそが『魂』なんだと思う。

そこには「成長したい!まだ見ぬ想像上の未来を見つめて成長したい!どんどん成長したい!」という意志が働いている状態、この全体が『魂』。

こんな『魂』で僕はいたい。そうでないと居心地が悪い。そうであれば居心地いい。こう成長し続けられる自分でありたいと常々思っている。

 

だから僕らは夢を見る

人は夢をることが生きること、自然なこと、むしろ見なければならない。

壮大な事柄を夢見たほうがいい。それは人だけができる優れた能力だから。

これができる、だから人なのだ。だから人は生きている間、ずっと夢を見続ける。人はそうしていられてはじめて、生きられる。

なぜなら魂だから。

お客さまは神さまなのか?

人が大きな目標を捉えてゆく過程について、原点に立って考えてみた。

人はみな成長したい。大きくなって進歩するってことは良いことだ。そのはずだ。それはクールだった。たとえば、未来の自分を想像して『そうなった自分』なんて過去形で言うとなんだかキマる。カッコイイよね。

だから人は成長してゆく。いつまでもどこまでも。

じゃぁ成長させる原動力ってなんだろう?
「成長したくない」という想いが強いと背が伸びなかったりするのはなぜなんだろう?

成長の原動力、その源は自らの意志の力だと思ってきた。(本当はもう少し踏み込んだ深い想いがあるけれど、それは別の機会に。)

目的とは、夢に向かわせる意志。

目標とは、夢に日付をつけたもの。

計画とは、実行可能な目標達成カレンダー。

計画のズレとは、夢の一部が実現できなかっだけ。

そして夢に向かわせる意志の源が「成長したい」という意志の力なんだ。そんな生き方ができるとき、それは自分にとって心地よく、それに関与する周りの人も心地よい。

でも、人は決して自分の力だけでは成長できない。必ず他から与えられた力を必要とする。「エネルギー注入」という表現がぴったりかもしれない。そしてエネルギー保存の法則が「成長」として捉えられる訳だ。

成長するという意志を働かせ、夢をかなえるには力が必要で、でも自分はその力を持っていないし足りない。そこで他の人の力を貰うとか借りるとかして人は成長し力を得て、その夢を叶えてゆくことになる。

他人の力を貰ったとしても、プレゼントした人は当然の見返りを求める。それは感謝だ。

感謝とは、大切で貴重なものとして尊厳を与えられ愛着をもって扱い、扱われること。「あなたは大切な人です」「わたしは大切にされている」とお互いに示し示されること。

それで、生きるとは他人の力を借りることで、人生とはその借りを返すこと。

ということは、貰うことも借りることも、その違いはあまりない。返報はどんな場合も必要で、返すのは「愛」か「利息」かということになる。

「愛」という名の感謝、ちゃんと示しているかな?

社会の営みの中で自分の夢をかなえるには、他の人の助けがいる。ということは、他の人の助けを得るために『助けて!』と叫ばないといけない。

人は助けたい。

本能的に見て「助けが必要」とわかると、自分に力があれば行く。力が足りなければ周りに声を掛ける「誰か!」って。川で溺れている子どもがいる!(心動く・緊急事態)とか、羽つき餃子がめちゃくちゃ旨い!(心動く・感動)とか、人が動くのは実は同じ。

救いを与えてくれた命の恩人に、救われた人はず〜っと感謝するから。決して忘れない。もう神様のような扱い。

だから「お願い。買ってくれ!」は「助けて!」と同義。苦しい時期に救いを与えてくれた人々への感謝を、一生忘れない。だから

「お客さまは神様です」という日本人特有の感性が生まれ、感謝の念の厚い文化がそれを支えてきた。

海外では、サービス供給者が神のよう。感謝を受けるのはサービス供給者だからね。そして今どきの日本の若者文化は感謝が薄いと言われる一方で、抜群のサービス供給者には神様扱いしている。

「神ってる」一流のスポーツ選手への賛辞や、音楽やダンス、はたまた見事なサービス提供者に対して「神」と呼んでいる。

ということは今、サービス供給者には極めたもの、極上のサービスを提供することが求められており、それを可能にしたなら神のように扱われることになる。

ということで、サービス供給者は極上のサービスを提供しよう。そして神扱いを受けよう。そしてそこでは謙遜して「光栄です、お客さま。心より感謝致しております。」と切り替えそう。

こうやって互いに高め合いエネルギーを供給し合おう。そうすれば互いに成長し、夢の実現にまた少し近づけるようにお手伝いしてあげられる。

そしてやがて自分の夢が叶っていることに気づく。